1965 このバス停は現在どうなっていますか? 昭和の家族の日常

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  • Опубликовано: 6 сен 2024
  • 新宿区 西落合一丁目近辺を巡ってきました
    音源はこちらをお借りしました
    fancy cherry by JoMa 様
    dova-s.jp/bgm/...

Комментарии • 59

  • @hehehe3591
    @hehehe3591 Год назад +49

    「今昔マップon the web」の1965~1968年の地図と手持ちの和楽路屋(わらじや)昭和43年発行の東京区分道路地図帖によると、西落合一丁目交差点の少し北西、マクドナルドや大江戸線のA1出入り口があるあたりにバス停があったと推察できます。写真の奥に見える校舎のような建物は現在「南長崎スポーツ公園」の所にあった「長崎中学校」と思われます。地図に記された校舎の向きも写真と一致します。
    古いバス停に記された行き先には、この大江戸線が通っている道路で行くのが良さそうです。

    • @723ch
      @723ch Год назад +7

      大江戸線の駅やマクドナルドのある場所は西落合三丁目になってしまうので、それは違うのでは。そこには今もバス停があり「落合南長崎駅前」というのですが、地下鉄駅ができる前は「西落合三丁目」という名前だったのではないでしょうか。
      追記:ちょっと調べてみたところ、「落合南長崎駅前」停留所の昔の名前は「西落合五丁目」となってました。

    • @762forest_railway
      @762forest_railway Год назад +4

      落合南長崎駅の南側の西側がギリギリ西落合一丁目です

    • @723ch
      @723ch Год назад +4

      @@762forest_railway地図を良くみてほしいのですが、この交差点が 一丁目三丁目の境界です。道路を挟んで地下鉄駅側には一丁目はありません。実際、今、この交差点際にあるバス停はかつては「西落合五丁目」だったそうです。五丁目ではないので、なぜそんな名前だったのかはわかりませんが。

    • @pokomakochan
      @pokomakochan Год назад +8

      私は10年以上西落合一丁目のバス停を利用していましたが、実は、後ろの建物については私も長崎中学校ではないかと思うのです。
      理由は長崎中学校が十三間道路(新目白通り)より高い場所にあったからなのです。
      私が使っていた西落合一丁目がこの写真の位置だとすると、今のがってん寿司あたりの土地の高さが矛盾してしまうのです。
      従って、私は落合南長崎駅付近にこの西落合一丁目が存在していたと考えた方が自然だと思いました。
      長いこと利用していた場所が久しぶりに見られてうれしかったですが😊

    • @723ch
      @723ch Год назад +3

      @@pokomakochan 私も、背景の建物から、このバス停が新目白通りにあった可能性も考えました。落合南長崎駅付近、新目白通り沿いには現在「落合南長崎駅前」というバス停がありますが、このバス停の以前の名前は「西落合五丁目」となっていました。いま「西落合五丁目」という場所はないのですが、当時は存在していたのか。
      落合南長崎駅がある場所は三丁目であるため、五丁目というのが間違いだったとしても「西落合三丁目」だったろうと思います。
      そこでもう一つ考えたのが、地下鉄駅より少し南側の西落合一丁目内にバス停があったかもしれない。しかし、そうなると背景の建物はどこだったのか疑問になる(バス停と建物の間に交差点はないので、背景の建物が長崎中学だとするとこのバス停は現在の「西落合一丁目交差点」より北側になければいけない、いま地下鉄駅のある辺りですね)。また、バス停というのは余程のことが無ければ廃止はされないものですから、可能性としては小さい。
      さらに、もし現在の「落合南長崎駅前」バス停が、この写真のバス停だったとすると、写真の建物(長崎中学校だとして)とバス停の距離がおかしい。地下鉄駅南の交差点は「西落合一丁目交差点」という名前であるため、この交差点を挟むように両方向のバス停が立っていたとすると、このバス停の名前が「西落合一丁目」だった可能性はあります。しかし、このバス停は「西落合一丁目交差点」のすぐ北側であり、長崎中学とはかなり離れてしまいます。写真だと、バス停のすぐ斜め前に建物があるので、矛盾する。
      以上を考えて、やはりこの写真は現在の西落合一丁目バス停と同じ場所だったのではないか?と思いました。背景の建物ですが、工場か、戦時中の軍施設などがあって、その後住宅地になった可能性はないのか、と。画面を拡大して見ると、背景の建物はかなりボロボロで使われているように見えない。また、工事中のフェンスのような物で囲われているように見えます。元からあった柵かもしれないが、使われない建物に侵入されないように、あるいは取り壊しに備えてフェンスが設置されていたのかもしれない。この建物が道路より高い場所にあるようには見えないのですが、いかがでしょうか。
      たとえバス会社に問い合わせても、そんな昔のことは記録も残ってないだろうし、当時の従業員もいないしで、わからないでしょうね。昔の地図などがあれば調べられるかもしれません。

  • @user-fz6kj3rc5s
    @user-fz6kj3rc5s Год назад +31

    素敵な女性ですね。母より少し年上の方だと思います。いまでもお元気でいらっしゃったら、変わりゆく町並みをどう感じられてるのか伺ってみたいです。そして母もこのような町並みを見て娘時代を過ごしたのかな…と考え深いです。

    • @723ch
      @723ch Год назад +6

      ご存命でしたら、現在は80代後半~90歳くらいの方と思われます。女性ですから、おそらくまだどこかでお元気でいらっしゃるでしょうね。

    • @user-fz6kj3rc5s
      @user-fz6kj3rc5s Год назад +8

      @@723ch お元気でいらっしゃってほしいです☺️

  • @snowpapua
    @snowpapua Год назад +17

    私も子どもの頃近くに住んでおりました。こういうさり気ない街の景色や、失われてしまった昭和庶民の家も良いものです。楽しませていただきました。

  • @N--jv3go
    @N--jv3go Год назад +20

    池65系統は経由地を何回か変えています。元々は池袋⇔豊島園の路線だったはずですが、区間が一部重なる橋68新橋⇔豊島園、宿62新宿⇔大泉学園の廃止があった時にこの系統の経由地変更で補っていたと思います、白61新宿⇔練馬車庫(この系統も最初は豊島園行きでしたが短縮されてます)も少し絡んでたと思います。以上おぼろげな記憶ですがご参考まで。

  • @user-xp2pe3dj6f
    @user-xp2pe3dj6f Год назад +9

    縁側のある家は、ほとんど見なくなりました!🥲

  • @bearbook73
    @bearbook73 Год назад +6

    いつも楽しく、懐かしく(関東地区にご縁はないのですが・・)拝見しています。また、ご覧になった皆様のコメントにも奥深いものを感じています。この1960年代頃になると、「風景」(場所)から「人物」にも「どうなった」を広げることができるのではないかと思います。「この家族は、この写真の後どんな人生を送られたか」という想像から、「この家族」「この方」または「ご縁のある方」が、今この時も人生を送っていらっしゃることも十分あり得ると思います。「私です」「私の家族です」そんなコメントが届くのではないかと思っています。

  • @user-yx6sl4qy2g
    @user-yx6sl4qy2g Год назад +13

    お疲れ様です、親子四代でのショットって昭和は良い時代でしたね。
    決して今の時代を悪いと言っている訳でもないですが、人と人又家族のつながりがあるのが人間生活であった・・・今は区切りがはっきりしていて昭和はそこが曖昧だった?いい意味で曖昧で思い起こせば高度成長期はじめの頃は車も必要な人のみが所有していたので、道も人が通れるほどの道が多く、目的地に行くには人の庭庭を自転車で通っていました、勿論ブロック塀なども無く人の家畑又人の家って走ってましたが、今なら不法侵入罪ってなりますね。
    この女の子も私よりチョット年上だと思いますので60前半の方だと思いますので元気に幸せに暮らしているといいですね。

  • @YM-fk9jv
    @YM-fk9jv Год назад +6

    1:58 1965年から数年後?の古いメルセデスがたまたまバス停を通り過ぎるのが良いですね。

  • @ao1341go
    @ao1341go Год назад +2

    0:20 停留所の写真及び行き先から見るに、
    当時の都営バス8(後の橋68【1977年廃止】)、108(1970年廃止)、132(後の宿62→新江62【2013年廃止】)のバス停と思われます。
    何れも目白通り上にバス停があったようですが、西落合一丁目というバス停が有ったかは不明です。
    小田急TIME様はおそらく池65に乗車し、西落合一丁目のバス停に降り立った様ですが、
    それとはおそらく別の場所かと思われます。
    同一バス停でも距離が離れているという事案は見られますし。
    尚、108系統、132系統は西武バスとの共管路線でした。
    ※こちらも憶測記入で失礼致します。。。

  • @user-qv7lm7vo9z
    @user-qv7lm7vo9z Год назад +18

    いつも有難う御座います。1965年。私が5歳です。写真の女の子と同じぐらいでしょうか。
    同じ新宿区出身ですが、まだまだ戦後が残っていました。
    バラックがあったり、ビルの屋上に家族で住んでいる同級生もいました。

  • @user-ij1sn3oz6m
    @user-ij1sn3oz6m Год назад +8

    新青梅街道は片側1車線、写真は片側2車線の目白通りかもと思いました・・・

    • @723ch
      @723ch Год назад +1

      写真の道路は片側1車線プラス現在の歩道くらいの幅の路肩部分があります。今の新青梅街道で歩道部分も込の幅とほとんど変わらないように見えます。写真では歩道が無いので、この後、歩道が整備されて車道が狭くなったように見えるのでは。

  • @user-pr7my8zb2q
    @user-pr7my8zb2q Год назад +2

    昔のバス停は、角材に鉄板で作ってペンキ書きした板を先に付けたものをコンクリート製の円盤?に挿した簡単なものが置いてあっただけだったので、、、、、
    自宅から50メートルくらい離れた位置にあるバス停を、毎日こっそり少しずつ動かして、自宅の真ん前まで持ってくる〜という笑い話がありましたwww😂

  • @danslejardindecytrus
    @danslejardindecytrus Год назад +9

    Merci beaucoup pour cette très belle vidéo comme toujours ! ✨✨👍🙏

  • @user-yn7sg3re7y
    @user-yn7sg3re7y Год назад +3

    場所の特定、結論から述べますと、今回の「西落合一丁目」バス停は、現在の「落合南長崎駅前」バス停でまず間違いないと思います。
    なぜならば,落合南長崎駅の場所の旧地番が「西落合一丁目」だからです。
    皆様は「地番変更」をご存じでしょうか。東京都で、主に昭和40年代前半に行われたもので、旧来の「〇〇◇丁目△△番地」から「〇〇◇丁目△番▽▽号」(〇〇や◇は同じとは限らない)に地番を変更する事業です。これは、旧来の地番では1区画内にある家屋数が多すぎる、各区画の区分と現在の道路配置が整合していない、家屋が増えて区画を分割したことにより隣同士の区画で全く異なる番地がついている、等が生じて住居の特定が難しくなってしまったため、新たに一定の基準のもとで地番を付与し直す、という事業です。
    今回の「西落合一丁目」についてもこの地番変更が行われ、その結果バス停の名前が変わったのではないかと考え、調べたところ、次の記事が見つかりました。
    SSブログ chinchiko.blog.ss-blog.jp/2021-01-30 1963年(昭和38)ごろの「地番変更案」地図。
    この記事、特に最後の写真を見れば、落合南長崎駅を含む現在の「西落合3・4丁目」が(旧)「西落合一丁目」であることが明白です。
    またこの記事によれば、下落合は1965年に地番変更が行われていると記されています。そして、写真のご婦人の服装や街路樹の状態から見て撮影時期は冬(つまり1965年の初め)と思われ、そうであれば地番は未変更と考えられます。
    これらから、今回の「西落合一丁目」バス停が現在の「落合南長崎駅前」バス停であることには位置的にも時期的にも矛盾は生じない、と判断できます。
    そして地番変更により、(旧)「西落合一丁目」バス停は位置を変えずに「西落合5(3?)丁目」に名称変更され、さらに地下鉄開業により「落合南長崎駅前」に名称変更された(もしかすると若干南に移動した?)と考えられます。
    このように考えれば、@pokomakochan様ほかが述べている地形的な問題:後ろの建物が長崎中学校(現南長崎スポーツ公園)である点にも全く矛盾は生じませんし、@reikobrown6993様の「野方の取水塔が見えない」という点もバス停の位置が違うのですから当然です。
    今回の皆様のコメントを読みますと、どなたも「地番変更」をご存じ無かったために(現在の地番だけで議論しているために)、議論が空回りしているように思えます。58年も前のことですので難しかったのかもしれませんが、肝心なところが抜けているために結論が出てこないように思われましたので、このタイミングですがコメントさせていただきました。

  • @akio.kawachi
    @akio.kawachi Год назад +8

    バス停の位置はそうそう変わりません(お役所仕事なので)。2つ下の方も書かれていますが、国土地理院の過去の航空写真や「今昔マップ」を参照すれば容易に特定できると思います。

    • @723ch
      @723ch Год назад +3

      バス停を移動するには、たしか運輸大臣か何かの許可が必要なはずなので、簡単に移動しませんね。そして移動するには余程の理由が必要です。区画整理でその道路が無くなってしまうとか、道路がつけかえられる(それまでカーブしてた道路をまっすぐに直すなど)とかでないと、変更はなかなか認められない。コメント欄には「西落合一丁目交差点」に注目してる方が多いのですが、この交差点は西落合一丁目と西落合三丁目の境界で交差点の北側、地下鉄駅とバス停がある場所は三丁目です。この交差点より西、住宅地に入った場所に「西落合一丁目」というバス停があります(動画で出てくるのもそこ)。そして、このバス停を通るバスが哲学堂そばを通っています。
      もしかしたら、昔は目白通り沿いに「西落合一丁目」というバス停があったのかもしれませんが、その場合は「西落合一丁目交差点」より少し南方向だったろうと思われます。

  • @user-fm4xm6yh6p
    @user-fm4xm6yh6p Год назад +3

    いつもありがとうございます。
    この時代ならこのアングルからみずのとうが見えるかな、と思ったりもしたんですが見えないですね。。。
    道路の向こう側はやけに高い位置に万年塀?とフェンスらしきものがあり、グラウンドのような感じもしますね。
    林の中の1枚は奥に洋風な建物とさらに奥はRC造のようなシルエットも見えます。哲学堂にこんなアングルあったかなーっと考えてますが、ちょっとわからないですね。
    今は周囲はビル、マンションだらけだと思いますが。。。
    左奥の丸太で組んだような手すりは哲学堂っぽい気もしますが。

  • @navitimer54
    @navitimer54 Год назад +6

    哲学堂公園はウォーキングでよく行きます。中野区側ですが東京とは思えない緑豊かな所です。

  • @user-qc9ds2iy5x
    @user-qc9ds2iy5x 5 месяцев назад

    ご苦労様です貴重な映像ありがとうございます。

  • @kotakiba
    @kotakiba Год назад +11

    40年前は毎日池袋で仕事してました。車の免許も「池袋自動車練習所」。サンシャイン完成目前の頃でした。

    • @723ch
      @723ch Год назад +1

      サンシャインは45年前に出来たはずですが・・・

  • @762forest_railway
    @762forest_railway Год назад +4

    昭和40年だと 映像の子供さんはご存命なはず
    昭和40年だと鉄道模型のカトーの前身である関水金属は存在してたはずです。

  • @user-dt6fi6gw6h
    @user-dt6fi6gw6h Год назад +5

    ホビセン東京店の最寄りバス停。

  • @freiweg1
    @freiweg1 7 месяцев назад

    西落合1丁目バス停の写真は、やはり旧長崎中学校南の目白通りのようですね。1956年の米軍撮影の空中写真には木造校舎時代の校舎位置がバス停写真と矛盾ありません。目白通りと校庭の3mほどの段差も、2009年撮影のグーグルストリートビューと比べて矛盾ありません。この段差は私も記憶があります。西落合は1965年8月に実施された新住居表示により1丁目一帯は、現在の西落合3丁目と4丁目になっていて、それ以前の撮影写真で停留所が西落合1丁目とされているのも矛盾はありません。バス停の行き先にある大泉学園、豊島園駅行きのバスなども目白通りを走っていました。現在の新青梅街道にある西落合1丁目のバス停とは違う場所にあったと考える方が自然だと思いました。

  • @user-uf2jg8pk3r
    @user-uf2jg8pk3r Год назад +8

    写真に写っている車がどうみても1950年代のものですね。
    この当時は新宿区内でもこんな車が走っていたのですね。
    大昔に見たウルトラセブンで開通したばかりの環七が映りましたが、驚くほど車通りが少なかったです。

  • @user-lr1zq1ij8v
    @user-lr1zq1ij8v Год назад +5

    本日のエンディングは
    路線バスでした🚌

  • @moto1269
    @moto1269 Год назад +4

    写っている西落合1丁目停留所の道路は現在のものより幅員が広く、バス停の位置が違う(変わった?)ことを示唆しています。
    他の方のコメントにあるように都営大江戸線の上、目白通りに停留所があったのでしょう。

    • @723ch
      @723ch Год назад

      写真の道路は歩道がありません。その後、歩道が整備され車道が狭くなったように見えるのでは。現在の新青梅街道の車道+歩道の幅と考えれば、写真の道路とほとんど変わらない。現在の地下鉄駅前、新目白通り沿いのバス停が名前が変わった可能性もあるが、いま「落合南長崎駅前」であるバス停の昔の名前は「西落合五丁目」だったとありました。いまは五丁目というのは無いので誤植かもしれないが、いずれにしても現在、地下鉄駅前のバス停がある場所は「西落合三丁目」なのです。五丁目が間違いだったとしても、以前の名前は「西落合三丁目」ではないかと思われます。

  • @user-ie5ui7sy2p
    @user-ie5ui7sy2p Год назад

    こんばんわ、私が小さな時は、鎌倉だったので、神奈中バス🚌で小田原に移ってからは、箱根登山バスと西武バス、日野に移ってからは、京王バスで小回りの効くタイプですね、多分解りませんが、鎌倉も乗らなくなった場所は、無くなったんじゃあないかなあ、小田原も西武が不振になってから埼玉に移ったのでバスその物がどうなったかなあと言う所でしょうね

  • @badboytv2006
    @badboytv2006 Год назад +1

    大学生の頃友人の車で横浜市の中心部ではない辺りをフラフラとしたときのこと
    おれ自身は東京の出身なのでそっちはあまりなじみがなかったんだけど
    横浜というイメージから港や瀟洒なビルがある街というイメージがあったけど
    中心を少し外れるともうものすごいド僻地でびっくりした思い出がある
    でもそういうとこが今行ったらもうびっくりするくらい発展してて二重のびっくりだw
    高校生のとき模試の受験会場で慶応大学日吉キャンパスだったことがあって
    行ったら駅の目の前だけどすっげえド田舎で、キャンパスから周囲を見渡すともう丘で
    周りにははな家とか藁ぶき屋根の家とかあって、おおーっ!って思ったけど
    今では「プチ自由が丘」っぽくなっちゃって時間の経過を実感する

  • @723ch
    @723ch Год назад +4

    石神井公園行き、としまえん行きバスとは、民間バス会社の路線だろうと思います。この動画に出てくるのは都営バスだから路線自体が違いそう。
    現在、新宿駅西口発・丸山営業所行きという路線があり、おそらくこの路線が、当時はとしまえん等、もっと遠くまで走っていたのではないかと。この後、メトロ有楽町線・都営大江戸線が出来ているので、遠距離移動は鉄道にとって代わられ、バス路線が短縮されたのではないでしょうか。
    また、交差点を中心に同じ名前のバス停が複数存在することがあります。西落合一丁目という名前のバス停は、2カ所あります。バス会社が違うとバス停が少しずれてる場合が多いです。丸山営業所行きのバス停は、この都営バスのバス停より少し西側にあるようです。バス停の場所は、バス乗り換えアプリでかなり正確に調べられます。Googleマップでも注意深く探せば見つかることもあるので、今後は活用をご検討下さい。ご参考までに。
    また、この写真のような緑地は、当時ならば、公園以外に残っている場所もあっただろうと思います。

  • @user-gf6kl2bq2
    @user-gf6kl2bq2 Год назад

    옛날 사진을 어떻게 구했는지 궁금하네요. 세월이 지났음을 알게해주는 영상.

  • @user-io5bl5kl7s
    @user-io5bl5kl7s Год назад +2

    私が10才の頃です。母親?の女性は20代後半でしょうか?この時代は結婚や出産は当たり前の様に早く14年後の私も友人達がまとまると、焦って来ていました。今は全て遅くなり少子化に
    拍車が掛かりますね。

  • @user-xk5fg5bc6x
    @user-xk5fg5bc6x Год назад

    新目白通りが開発するまでにバス路線の経由地が変わったのですね。大江戸線が開通したら,いつの間にか東京23区の最西端だった大泉学園発着の都営バスが廃止されました。

  • @yae_nachi
    @yae_nachi Год назад +3

    1965のバス停は道の広さから見て新目白通りにあった気がしますね。
    今で言う落合南長崎駅のあたりじゃないかなぁ?

  • @user-xx8hb6sf5g
    @user-xx8hb6sf5g Год назад

    月日は58年経ちましたね

  • @takoyaki-gq1qj
    @takoyaki-gq1qj Год назад +3

    自動車の数が増え環境破壊が進んでしまっていますね😫 恐ろしい限りです。

  • @reikobrown6993
    @reikobrown6993 Год назад

    ああ懐かしいな。10年以上前、ヘルパーの仕事で通ってた西落合。地下鉄、大江戸線「落合南長崎」の近くよ。90代の女性利用者さんだったけど築50年の木造一戸建てで狭いお庭だったけど色々な花が咲いてたな。チョコっと写ったサイゼリア、エレベーターが無くて2階だから利用者さん行きたくても行けないんだって言ってたな。その後利用者さんが亡くなったあとに見に行ったら息子さんがマンションにしてしまったようだった。沢山あった個人商店もどんどん姿を消して行って寂しいです。でも妙正寺川が流れ、新宿とは思えないとても良い所です。西落合は都営バスと関東バスの他に緑の国際興業のバスが走ってました。新目白通りは長距離バスも走ってて西落合交差点のマクドナルドからよく眺めたものです。

    • @723ch
      @723ch Год назад

      とても不思議なことなのですが、西落合一丁目付近の新目白通りを通るバスは長距離バスだけなのですよね。

    • @reikobrown6993
      @reikobrown6993 Год назад

      @@723ch そう言われれば路線バスは走ってないですね。山手通りの交差点からは都営大江戸線が新目白通りの地下を走っていますが........

    • @723ch
      @723ch Год назад

      @@reikobrown6993 返信ありがとうございます。山手通りから西落合一丁目までの新目白通りは昭和44年(1969年)に開通したそうです。その後、この道路を通るバス路線は新設されなかったのですね。その頃には、もう都営地下鉄の計画があって、バス路線は要らないとされたのかもしれません。昭和44年から大江戸線ができるまでに何十年もありましたが。バス路線て、一度できるとなかなか変わらないものなのですね。

    • @reikobrown6993
      @reikobrown6993 Год назад +1

      @@723ch さん  大江戸線てそんな昔から計画されてたのですか?確かに西落合は電車に乗るにはバスで目白か新井薬師に出るしか無く陸の孤島と言われていました。こうしてコメント群を見ると、この停留所が目白通り(青梅街道)にあったか新目白通りにあったかで白熱の議論がなされていますね。私見ではこの当時のバス停は今のマック側大江戸線出口の周辺にあった気がします。向こうに見えるのが豊島区立長崎中学だと思います。決定的なのがバスの行き先です。新目白通りは江古田方面へ行くと西武池袋線と並走する形になります。行き先が大泉学園や豊島園だと新目白通りを行くのが自然だと思えます。現在の西落合1丁目停留所ですと目白通りから続く青梅街道を行く事になり豊島園や大泉学園方向とは違います。また、この停留所から見えるはずの古い建物と言えば野方の取水塔です。角度にもよりますが、それが見えないのは不思議です。私は本来、東京でも多摩地区の田舎で育った人間で都心には縁がありません。体調不良など様々な要因で都心に住む事になり今もヘルパーをやっています。ところが、その多摩地区にある母校の中学の担任は逆に西落合の近くで育ったと言うので仰天しました。そして隣のクラスの担任はその後、長崎中学の校長になりました。若い頃、随分苦しめられた体調不良ですが、それが無ければ西落合なんて場所、一生知らずにいたしこんな書き込みをする事無かったでしょう。運命は面白いものです。そう言えばホビーセンターKATOでよくNゲージを鑑賞していましたね。住んだ事も無いのに西落合は懐かしい故郷のように感じています。

    • @723ch
      @723ch Год назад

      @@reikobrown6993 今の都営大江戸線の構想は1962年に始まり、1972年に現在とほぼ同じルートが決まり、1974年に免許が取得されています。山手通り~西落合一丁目交差点までの新目白通りが開通した頃は、このエリアに地下鉄ができることはほぼ決まっていたと考えられます。
      バス停の位置については、明らかな点だけ書きます。まずこのバス停の位置が新青梅街道だったとしても、この写真の角度では野方給水塔は見えません。この写真のフレームのかなり左側にあるはずです。東西の距離だけでも約400m離れているため、このバス停位置から給水塔方向を見ても、うまく建物の隙間が空いたスポットがあれば見える程度で、2階建ての建物越しでも見えないと思います。
      またこのバス停が目白通り(十三間道路)沿いだったとすると、少なくとも現在の「落合南長崎駅前」バス停の位置だと南長崎スポーツ公園(旧・長崎中学校)は遠すぎて、この写真の角度ではフレームに入りません。今の地下鉄駅前バス停から、この写真の角度で道路反対側を見ると、建物の場所はタイヤ館目白です。この写真の角度・位置に長崎中学校(この建物が長崎中学校だとして)が見える場所は、現在のアイテラスというショッピングモール辺りです。この地点は、地下鉄駅前バス停からは約200mも離れています。元はアイテラス地点にバス停があって、地下鉄開業の際、位置が駅近くに変更された可能性も考えました。しかし、写真に映っている道路はどう見ても十三間道路の幅員はありません。バス停位置は変わったと仮定しても、道路の幅員で矛盾が残ります(十三間道路は昭和10年に完成している)。
      色々な方が意見を出しておられますが、どなたの説も客観的裏付けが不足しており、いま簡単に手に入るデータだけでは、このバス停位置がどちらだったか断言できるほどの材料は無い、というのが正解だと思います。これ以上、謎を究明したいなら、国会図書館でも行って古い地図を調べるしかないでしょう。ご自分の思い込みを客観的根拠と誤解なさらないよう、お気をつけたほうがよろしいかと。更に地図などお調べになって、確実かつ客観的な根拠が見つかったら、ここのコメント欄でお知らせいただけると、小田急Timeさんにも、視聴者さんにも、喜ばれるかと思います。